石巻市大川小学校跡から門脇小学校跡、そして日和山から
今年の3月のことです。
息子と一緒に東日本大震災の被災地を巡る旅行をしました。
テレビでの情報しか知らない息子に、その目で一度は見た方がいいよ、というので親子というか男2人旅です。
宮城県気仙沼市から北上して岩手県陸前高田市へ行き宮城県南三陸町に宿泊。
そこから南下して、石巻市へ向かいました。
立ち寄ったところを地図に記しています。
海岸沿いの国道398号を走っていると途中で展望台があったので、車を停めると・・・
「三陸復興国立公園」の展望台。
以前は陸中海岸国立公園でしたけど、震災後に青森県の種差海岸階上岳県立公園と八戸市鮫町を編入して、2013年に「三陸復興国立公園」になりました。
さらに2015年に南三陸金華山国定公園を編入しています。
なので、ここは2015年から「三陸復興国立公園」になったようです。
展望台からの眼下の白浜海岸と対岸の雄勝半島が見えています。
ここで思わぬものに遭遇しました。
新しい慰霊碑がありました。
「東日本大震災物故者諸精霊之碑」です。
後ろには白い菩薩像が立っていました。
さらに海岸沿いに北上川河口に向かい、少し上流にある石巻市立大川小学校跡へ行きました。
旧石巻市立大川小学校校舎裏側。
河口から約5kmもの距離にあるこの大川小学校を津波が襲いました。
そして校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が亡くなられました。
たくさんの献花。
千羽鶴も飾られています。
学校の全景(クリックすると拡大します)
同行した息子は当時小学校6年生で、ここで亡くなられた子供たちと同年代です。
わたしはそのことを思うたびに胸が締めつけられます。
さらに石巻市街地に向かい、海岸近くにある日和山へ上がりました。
日和山は標高60mもあります。
そこから市内の様子を見てみます。
地図の赤色や青色の部分が浸水した範囲で、市街地の多くが被災しています。
うねっている旧北上川の西側は、鰐山(緑色)を残して、周囲はすべて浸水しています。
そのうち青色の部分は家屋がほとんど流出したところです。
さらに流された自動車から漏れ出したガソリンに引火して周辺は火事となり、日和山に迫りました。
行った順序は逆になりますけど、日和山からの景色の前に日和山のふもとにある小学校のこと。
石巻市立門脇小学校。
ここは高さは6mを超える津波に襲われました。
しかもその後の火災で、校舎が燃えてしまいます。
しかし全校生徒300人のうち一旦下校して戻ってきた生徒を含めた275名は、教師の誘導で裏山に登り、全員の命が助かりました。
校舎の裏から見ると火災の跡がわかります。
小学校は、火災の被害で校舎が使えなくなり、2015年に閉校しました。
しかし校舎は震災遺構として部分的な保存が図られることになり、補修が行われていました。
津波に襲われながらも犠牲者の出なかった陸前高田市立気仙中学校、石巻市立門脇小学校、そして多くの子供が亡くなった石巻市立大川小学校を見てきました。
どうやって命を守るのべきなのか、考えないといけない、と改めて思います。
さて、日和山に上り、日和山公園から石巻市内を眺めました。
公園内には震災前の写真が掲示してあって、昔の様子と現在とを比べることができます。
<震災前>旧北上川を少し北に上ったところ、川に浮かぶ島は中瀬。
奥の白いドームが「石ノ森漫画館」で、家屋もありましたが・・・。
<現在>ビルを残して住宅は全て流出したまま。
<震災前>旧北上川の東側は工場や住宅がありました。
<現在>ここは居住地区になる計画で、建物が建ってきています。
<震災前>旧北上川河口にかかる日和大橋。
かつて河口の両岸には工場や住宅が密集していましたが・・・。
<現在>いくつかの工場が再建されています。
川の手前は公園ゾーンになるようです。
<現在>日和山の南には復興公営住宅が建っています。
その向こうは公園ゾーンになるので、建物はありません。
公園ゾーンには何もないけど、まち全体の復興はいまも進んでいる最中です。
復興は終わっていないんだよ。と、息子と自分に語ります。
そんな復興が進む石巻市を見てから、この後、少し休憩しました。
この記事へのコメント
訴訟に発展してしまったのは残念でしたが、
おっしゃる通り、どうやって命を守ることができるのか、考えさせられます。
ご子息さんに、現場の空気を感じてもらうことは、大変有意義なことだと思います。
別の日の写真で拝見しましたが、大きくなられましたね。
テレビとか書籍ではない、生の光景を前に、なにかしら思うことがあったなら、
この「ツアー」は良かったことだと思います。
後世に語り継ぐのもまた、私たちに課せられた使命なのですね。
丁寧なコメントをありがとうございます。
息子には本当はもっと早くに見せたかったんですが、なかなか機会を作れないままに今になってしましました。
しかしそれが逆に、少し大人になってから考える機会になったかもしれません。
被災地のあの風景は写真やテレビでは伝えきれません。VRだと感じられるかもしれません。
「ツアー」という言葉は、今回の上っ面だけの旅を自戒の念をもって、自虐的に使っているようです。でもそれが考えるきっかけになればいいかと思っています。